人生やりなおし研究所 Talking BAR編 vol.5「多拠点生活で見えてくること」にご参加いただいた白澤健志さんにコラムをご寄稿いただきました。
—-
2016年5月10日
<Before Talk>
西村さんのお話を聴くのはこれで三度目だ。
前回は2012年4月、丸の内で行われた社会人向けの講演会だった。300人の聴衆に向って話す演題は、当時の最新刊のタイトルと同じ『かかわり方のまなび方』。
講演主催者の依頼で私が書き寄せた公式感想文には、「ただ、聴く」ということの大切さを、穏やかに、だが切々と説く西村さんの姿が記されている(興味のある方は「西村佳哲 夕学レポート」で検索されたい)。しかしその直前の1月、Be-Nature Schoolの講座「自分という自然を生かす」に参加し至近距離で接した際の西村さんの印象は、それとはまるで違う。
雪積もる信州の研修所。インタビュー実践の講師として現れた西村さんは、ファシリテーターの中野民夫さんや主催者の森雅浩さん(マーロン)を相手にインタビューのお手本を示してくれたのだが、旧知の二人に問いかけるその言葉の切れ味は滅法鋭かった。
激しい言葉を遣うわけではない。だが、訊かれたほうが思わずタジタジとなってしまう、相手の核心を突く質問が次々と繰り出されていった。その時の印象を、私は手元のメモにこう記している。「見えない薙刀のようなものが見えた」。以来4年。Talking BARという、定員15名の小ぢんまりとした場で、今度は果たしてどんな西村さんにお会いできるのか。ささやかな期待を胸に渋谷のBe-Nature School事務所に足を運んだ。
<Talking BAR本編・Part1 オープニング>
午後7時、開始時間。
「先ほど徳島から着きました」という西村さんの挨拶もそこそこに、司会のマーロンが「乾杯!」と叫んでトークが始まる。5人掛けのテーブルが3つ設えられた会場はもちろん満席。キャンセル待ちの方も多数いらっしゃった由。その貴重な場に立ち会えることに感謝する。「みんな、ニシのことはよく知っていると思うけど」と、マーロンが昔からの呼び名で西村さんを紹介する。ここでは、BNSのサイトに掲載された、マーロン自身による事前告知文を抜き出しておこう。
西村さんとBe-Nature Schoolとの関わりは、2000年に「自分という自然に出会う」のシリーズにご本人が参加してくれたことから始まります。ワークショップの研究中だった彼は、その後2003年に『自分の仕事をつくる』を上梓。以降、「デザイナー」「大学講師」「プランニング・ディレクター」など多方面で活躍しながら、同時に多くの著書を出版されています。その西村さんが二年前から四国・徳島県の神山町に家を借り、多拠点での活動をスタートしました。…
後のトークで明らかになったところによれば、西村さんが「自分という自然に出会う」シリーズに参加した目的は、中野民夫さんのワークショップを研究することだったらしい。
今でこそ中野さんはこの分野の第一人者として高い知名度を誇るが、2001年に岩波新書から『ワークショップ』を著すまでは、それこそ「知る人ぞ知る」存在だったはずだ。その前年からアプローチしていたということは、西村さんのアンテナの感度が相当高いものだったことを意味する。そしてその流れの中で二人は、「全国教育系ワークショップフォーラム」(2002~2004年)を、実行委員長(西村さん)と総合監修(中野さん)という立場で紡いでいくことになる。個人的な話になるが、私が西村さんの名を初めて目にしたのも2001年だ。だがそれはワークショップの文脈ではない。故・渡辺保史さんの『情報デザイン入門』(平凡社新書、2001年)に、伝説的な「センソリウム」プロジェクトのメンバーとして刻まれた西村さんの名前が、私にとっての“第一印象”である。
しかしその「デザイナー」である西村さんが、2003年に『自分の仕事をつくる』を書いた「働き方研究家」の西村さんと同一人物であることにはなかなか気づかなかった。2006年には、開港を間近に控えた神戸空港で「アースクロック」が時を刻み始めるのを(仕事として)この目で見ていたのに、それが「リビングワールド」名義で西村さんが手掛けた作品であることにも気づいていなかった。
複数の「西村さん」像が統合されたのは、私が2009年にBNSに出入りするようになってからだ。能書きが長くなった。トークに戻ろう。
まずはマーロンが「今、何しているの?」とシンプルに問いかける。
ほんの一呼吸の間だけ考えて、西村さんが口を開く。
「ひとつは、本を書いている。奈良でやった『ひとの居場所をつくるひと』というフォーラムを基にした本。タイトルは多分、『ともに生きる技術』。これから3か月くらいかけて書く。
それから、徳島県の神山町に移り住んだ。今は7割方そこにいて、地域のプランニングをやっている。この4月、町と一緒に一般社団法人(「神山つなぐ公社」)をつくったばかり。住んでいるのは築百年の家。少しずつ手を入れていて、先週、やっと台所ができた」
「リビングワールドは?」とマーロンが訊くと、「頓挫した」というかぼそい声。
「過去形なの?」と更に問われると、「過去形にしたい自分がいる…(笑)」というつぶやき。ここで西村さんが突然、
「こう見えて、人生の節目では占いに行っているんだよ」
と、意外なことを言いだす。
「…そのこと、どの本にも書いてないよね(笑)」
みんなの戸惑いをマーロンが笑いでまとめたところで、西村さんが堰を切ったように語り出す。「二十代後半、会社勤めをしながら毎日眠れずにもんどり打っていた日々があって。その時、有名なタロット占い師に観てもらって、その言葉を書き留めておいた。後から見たら、物事は大体その言葉の通りになっていた。それ以来、人生の節目で『おおよそ、こっちかな』と思ったら、占い師のところに『裏取り』に行くようになった」
ここには記さないが、トークの場では、具体的な占い師の名前や紹介者である著名人の名前が実名でポンポン飛び出した。占いに造詣の深いマーロンも思わず乗り出し、しばし西村さんの占い師遍歴で盛り上がる。その数、一人や二人ではない。
「ニシって、人生の節目、多いね(笑)」とのマーロンのツッコミもさらりと受け流し、西村さんは続ける。「徳島に来るぞ、というタイミングが4年前。その2年前から神山町で土地を買う交渉をしていて、なかなかまとまらなかったけど、買うのではなく借りることにしたらすぐ決まって。その引っ越しがどうなのか、また裏取りに行った。そうしたら占い師が言った。『人間関係から仕事から、まるで変わるね』、と。実は、自分からは引っ越しの話はしていない。黙って座っただけ。なのに、そろそろ大きな変化があると言われた。そして今、実際にそうなっている」
<Talking BAR本編・Part2 神山町という拠点>
話が徳島に跳んだところで、マーロンがあらためて西村さんに訊く。
「神山町は、ある意味有名な土地だよね。なぜそこだったの?」
その問いにすぐには答えず、西村さんは、まず神山町の紹介から始めた。
「神山町は、徳島市から車で45分くらいの距離にある、典型的な高齢過疎の町。だけど、国内外のアーティストを招待し一定期間滞在してもらいながら芸術活動の場を提供する『アーティスト・イン・レジデンス』をかれこれ17年くらいやっていたり、いろんな先進企業のサテライトオフィスができていたりする、そんなところ」
いくつかの映像とともに、西村さんの新しい拠点である神山の人や風景が、会場の参加者の目に届けられる。ひとしきり神山町についての話を聞いたあと、マーロンは質問の矛先を変える。
「そもそも、なぜ拠点を移そうとしたの?」
ここでも西村さんは、ほんの少しだけ考えたあと、思いを言葉にし始める。
「結構前から、2拠点目が欲しかったんだよね。東京じゃないどこかに自分で居場所をつくりたかった」
「生まれ育ちは東京の杉並だよね」
「会社で働き始めて三年目の頃、一人旅で遠野の方に行った。そのとき車窓の景色を眺めつつ、丘の上にポツンと建っていた農家を見ながら、頭の中で『無理』とか呟いている自分がいたのを憶えていて(笑)。その頃から、移り住む場所を探していた気がする。そういう時期が結構長くあった。けど、恥ずかしくて誰にも言わなかった(笑)。言えなかった。
誰にも言ってなかったのに、4年前、ミシマ社の三島邦弘さんという動物的な勘のある編集者から『地方とか移住とかの本を書いて欲しい』と言われて。ちょうど、土地の交渉がまとまらなかった時期で、あまり書きたくなかった。けど、書いた」そこから話は再び神山へと戻っていく。
「神山町を初めて訪れたのは9年前。『アーティスト・イン・レジデンス』のWEBサイトの再構築に、総務省の予算がついた。でも活動主体であるNPO『グリーンバレー』の人たちは、具体的に誰に何を依頼すればよいのかわからなかった。そのときに四国経済産業局の担当者が僕の名前を挙げてくれたらしい。そうやって声を掛けてもらい、一か月後にはNPOの人たちに会いに行き、それから毎年通うようになった。
同じような取り組みをする自治体は今でこそ増えたけど、神山町の場合、町の予算は百万円だけで、あとは住民の手弁当。『グリーンバレー』の目的も、芸術振興よりは国際交流にある。町民や子どもたちが文化に触れる機会をつくり、いろんな人が移り住んでくれるといいな、と思って活動している。いずれ人口が減るにしても、その内訳を変えることはできる。ならば面白い人の率が高い方がいい、と」
「『面白い人』とは?」
「言われてもいないのに何かをやる人。つまりそれは、アーティストのこと」
「ニシは自分をアーティストだと思っている?そこに惹かれたの?」
「『アーティスト・イン・レジデンス』そのものに惹かれたわけではない。ただ、その運営の仕方に惹かれた。招待するアーティストも、専門家に意見を聞くのではなく、素人である彼らが自分たちで決めていた。アーティストとしてどうかというより、自分達が会ってみたいと思う人を選んでいて、これは面白いなあ、と」ここでマーロンが少し間合いを詰める。
「ニシは、学生時代から2拠点目を求めていた。そして、神山町で『ここだ』と思ったわけ?」
「…『ここだ』、と」
会場の誰もが予期していた言葉が、西村さんの口から零れた。と、思いきや、
「…『ここだ』、と、思わないようにしよう、思わないようにしよう、と思ってきたんだよね(笑)」
苦笑いしながら告白する西村さんの姿に、会場もあたたかい笑いに包まれる。すぐに西村さんが言葉を接ぐ。
「別の人生とか、別の場所とか、『ここではないどこか』なんてダサいと思っていた。何気なく出会って、何気なく入って行きたかった。地元の人の前では『家なんて探してないよ』というフリをして。それから2年くらいして、散歩していた時に不意に『あ、ここいいな』と思った場所があって、そこの土地を買おうとした。けど交渉が難しくて。じゃあ、まずは借りて住んでみようと方針を変えたら、すぐに家が見つかったのが、2年前」
「神山町のこと、最初のタロットにはどう出ていたの?」
「タロットには(今から5年前の)46歳までのことしか出ていなかった。でも神山に移って、仕事の相手は本当に入れ替わってしまった。マーロンとは、こうして変わらずおつきあいをさせてもらっているけど(笑)」<Talking BAR本編・Part3 多拠点生活>
ここでマーロンが「3拠点目」の意味を確認する。
「普通なら『2拠点生活』と言うところを、『出張先』を加えて『3拠点』と言うのはなぜ?」
「それは、ワークショップの仕事で五泊とか、一回の出張が長くて回数も結構多いから。
陸前高田の『箱根山テラス』のプロジェクトの場合、震災の年の12月に現地の若い経営者たちの話し合いに参加するところから始まった。平野部の街並みはすべて流されてしまい、仮設住宅には親戚が来ても泊める場所がない。止まり木がないと人もとまらない。なら場所をつくろう、と山の中腹に宿泊施設をつくり始めた。
その想いを共有し、同じ目線で話ができて、かつ彼らと相性のよさそうな建築家やランドスケープ・デザイナーを引き合わせてつないだり。自分も、かつては建設会社にいたので取りまとめの勘所はわかる。インテリアの工程にさしかかると、またその都度必要な人をつないで。2014年にテラスがオープンしてからは利用者としてお客さんを連れてくる側になり、以来ワークショップなどを開いている」
「出張先にも長く居て、いろいろな活動をするから多拠点なんだね」
「時間だけの問題じゃない。仲間として関わるからこそ、そこが拠点になる」
2拠点とか多拠点とかいう以前に、「拠点」とはそもそも何なのか。そのことの本質が、西村さんの口をついて出た。では、「(多)拠点」を持つことは、西村さん自身にどんな変化をもたらしたのか。
そのことを問うマーロンの言葉に、西村さんはこんな話で答えた。
「人間、50年も生きてくると、耳年増になってくる。たとえば『冬みず田んぼ』の話題とかが出れば、『あー、はいはい』『いいよね』とか言ってしまったりするのだけど、実際にやったことがあるわけではなかったりして。知識として知っているだけで内実は知らない、本当のところを知らない、なのにわかったふりをして喋っていて。我ながら、こんな恥ずかしい人生はないと思うようになった。
昔やっていたインテリアデザインでも、実は、壁の中がどうなっているのかよくわかっていなかった。建物の構造とか配置とかコンセントの位置も知らずに、化粧仕事をしていた。今回、家一軒に丸ごと手を入れて、家はどうできているのかとか、この世界はどうできているのかを、掴み直しているところ」
「引っ越して一番変わったのは、耳年増から、リアルにやってみるようになったということ?」とマーロンが確認する。
「やれる環境に身を置くことができるようになった、ということかな」と、西村さん。「じゃあ逆に、生まれ育った東京はいま、ニシの中でどんな位置づけなの?」
マーロンのこの問いには即座に答えが返ってきた。
「今日みたいにたまに来ると、東京って何だか古臭いな、と感じるようになった(笑)。
神山町にいると、古いとか、新しいとかでなく、ただ『今』だなあ、と感じる」
なるほど、という意味の唸り声が、会場中から湧き上がり、こだまする。「で、神山町に移り住んで…」
とマーロンが次の質問をしようとしたところで、西村さんがそれを遮って言う。
「…実は、人口減少対策プロジェクトのど真ん中にいるのに、自分の住民票はまだ移していないんだよね」
会場は爆笑である。西村さんが話を続ける。
「地域にまみれてしまうのは、いま自分が担っている機能に照らして、よくない気がしていて。いろんな目線があるけれど、余所者でいる方が役に立ちそう。他の若い移住者が地域に入っていって、飲み会だとか消防団とかお祭りとか頑張っている姿を見ると『偉いなあ』と思いつつ、自分はそういうのには向いていないな、と。無理している感じになってしまいそう」
「でも、地元の人は、“移住者”であるニシに何かしら話しかけてくるわけでしょ?」
「うん。ああ、こういう質問をしてくるんだな、と思ったのは『死ぬまでおるん?』とか、『お墓つくる?』と訊かれた時。どういうつもりでここに来ているのか、と問われている。『死ぬまでおるん?』と訊くのは、つまり以前に移り住んで来た人がまた出ていっちゃったとか、そういうのが残念だったのかも」
「で、ニシは、死ぬまでいるの?」
「そうなったらいいな、とは思っている。そもそも墓はいらないけど(笑)」「多拠点生活をするようになって、働き方に対する気持ちは変わった?」と問われると、
西村さんは、少し天を仰いで考えた後、『鮎』のことから語り始めた。
「鮎喰川(あくいがわ)という川が神山町を流れている。昔は天然の鮎が遡上していたけど、植林で山と川の状態が変わり、下流部に土砂が堆積して遡上数が減った。ここ最近は河口で捕獲した鮎を放流しているらしい。鮎が泳ぐ姿は観光客には評判がいいけど、放流した鮎で褒められても、どこか単純に喜べないんじゃないか。で、鮎が遡上する状況をどうつくるか? という話を町長と交わしていたりする。都会や、大きな市や町だと、こんな話にはまるで手が届かないと思う。でも神山町くらいの規模だと、たまたまだけれど、いろんなことに直接アプローチできる感じがある」
「拠点をひとつ確保したことで自分の影響力を持てた、ということかな?」
「影響力を持ち得たかどうかはわからないけど、『いつか』と思っていた手持ちのカードを、今、バシバシ切っている。人的なつながり、知識、能力、全部のカードを、いつかじゃなくていま使ってしまおうと。箱根テラスもそうだけど」<Talking BAR本編・Part4 夢/仕事/働き方>
ひととおり「今」の話を聞き終えたところで、マーロンと西村さんの対話は自然と「昔」に向っていった。西村さんが青年時代を振り返って言う。
「ここではないどこかとか、いまではないいつかとか。『青い鳥願望』みたいなものは学生の頃からあったし、会社に入ってからも持ち続けていた。でもそれを他人には決して言わなかった。恥ずかしかったし、ガス抜きになってしまいそうな気もして。世の中には、夢を周囲に語ることで実現していく人もいる。でも自分の場合、愚痴も夢も外には出さず、溜めて、溜めて、内圧の高い状態を保ちながら実現してきたのかも」
「僕の周りには、語りながら夢を実現する人のほうが多いけど、ニシは違うタイプなんだね。そういえば、昔から気難しい、取っ付きにくい印象だったよね。神山町に拠点を持つまでは(笑)」
「…もう、恥ずかしい(笑)。帰りたい」とつぶやく西村さんに、会場がワッと沸く。
そこに「ホント、明るくなったよ」とマーロンが追い打ちをかける。さらに、マーロンから話を振られたBNS事務局の帖佐さんまでもが、2000年当時を述懐して、
「最初、口数が少なくて、団体行動が苦手で。今でもそういう感じだけど(笑)、でも、だいぶ明るくなったね」とダメ押し。西村さんはもう、黙ってうつむくしかない。その姿に会場中が、また、ドッと笑う。
「昔はホント、笑わない人だった。8割方、しかめっ面で。でも今日は笑顔が8割。これも神山町のおかげですかね」とマーロンがにやにやしながらまとめた。ここまで、ボケとツッコミのような絶妙の掛け合いで西村さんとのトークを弾ませてきたマーロンが、最後の最後に、真顔でこう訊いた。
「ところでニシ、『いい仕事』って、結局、なんだろう?」
西村さんが、マーロンのほうに向きなおって答える。
「自分がやることで世界が少しでもましになる、よくなる、そう感じられる仕事。働き方云々ではなく、意味の感じられる仕事。意志の含有率が高い仕事。それをつくっていかないといけないし、いま自分は神山でそれをやらないとな、と思っている。
昔、『どんな仕事でも、そこでどう働くかはめいめいの手元にある』とか書いた。働き方が仕事の質をつくると思っていたからで、そこはそうなんだけど、今は、働き方の変革では救われないと思っている。働き方がどんなにクリエイティブになっても、やっている仕事自体が、やればやるほど貧富の差が広がることだったり、世界をしょうもなくしていくことだったりしたら浮かばれない。意味が感じられる仕事をつくることが大事」
「『意味のある仕事』と『しょうもない仕事』、具体的にどう違うの?」
「うーん…一概には言えない。それは、コンテクストによる、相対的なもので…」
数秒の間。
ここまでのテンポに比べるとかなりの長さに感じられた沈黙のあと、西村さんはポツリと
「…今、自分の中で、『意味がない仕事』が思い浮かばない」と呟いた。
「鮎の放流、じゃないの?」とマーロンが返す。
「あれは…意味の含有率が低い仕事。だけど、ゼロではない」ここで西村さんは、うわべをつくろうだけのオフィス改善事例や、何人かの社会変革企業家の名前を挙げながら、こう言った。
「どんな仕事でも、一生懸命やれば意味ややりがいは見いだせる。けれど、そこでだまされてはいけない。新しい意味が共有できる仕事をつくり出さないといけない。そういうことができている会社もある。みんなが見ないようにしているところをちゃんとひっくり返して見せてくれている人がいる」
「でも、それができない人もいるよね?それは意志がないからだ、と考えるのは、僕には辛い。確かに世の中には、世界を作って行けるタイプの人と、そうでない人とがいる。でも、自分の意志が世界を作るのだとしたら、本当は誰にでもできるはずのことなんだけどね。
なんか腹落ちしない感じ、もやもやした感じもあるけど、でも今日はむちゃくちゃ楽しかった、ホント!」
いつもはゲスト並みに雄弁なマーロンが、ここまであまり表に出して来なかった自らの思いを、最後に少しだけ吐露しつつ、でも『むちゃくちゃ楽しかった』というもうひとつの本心にくるんで巻き取るような形で、トークは終わった。会場が拍手と笑顔に包まれ、やがて止んだ。午後9時40分だった。<After Talk>
ところで西村さんは、実はお酒が飲めない。Talking “BAR”始まって以来の下戸のゲストだった。
だからというわけではないと思うが、トーク終了後は西村さんも、スタッフも、いつものように残ったお酒やおつまみを囲んで…ということもなく、早々に会場を後にした。一人ぼっちの帰路、道々、こんなことを考えた。
「鮎」という字は「魚」偏に「占」と書く。
「占」という字は、「占(うらな)う」とも、「占(し)める」とも読める。
「アユ」と発音される魚にこの字が当てられたのは、戦勝の占いに用いられたからだとも、成魚になると川の中に個々に縄張りを占めるようになるからだともいう。天然の鮎の遡上が減ったのは、ひとつには、川の水量が減ったからだ。
水量を豊かにしてやれば、鮎の遡上は増える。それは魚の生態にとっては自然なやり方だ。でもそれには人工的な営為である大規模な浚渫作業が必要となるだろう。
一方、河口で捕獲した鮎を上流のほうで放流するのは、人の手を介した、文字通り人為的な営みだ。鮎の生態を無視しているともいえる。ただ、それに要するエネルギーの総量は、土木作業のそれよりもかなり小さくて済みそうだ。
果たして、どちらのほうが、より“自然”な営みなのか。
どちらのやり方に、仕事に、意味と意志が多く含まれている、と言えるのか。
簡単に答えが出る問題ではない。
ただ、そのように川のことを考えること、鮎のことを考えること、それ自体がすでに地域にコミットするということであり、共同体の中における自分の縄張りを意識することであり、つまりは「拠点を持つ」ということなのかもしれない。ところで「拠点」という言葉は、どうしてもある特定の場所をイメージさせる。
東京、徳島、そしていくつかの出張先。
でもそれらはあくまでも、土地に紐づけられた、地図帳の中に見出せる便宜的な名前だ。
そして地図は、地中の実相を描き出してくれたりはしない。イメージの力は強大だ。喚起されたイメージは、知らず知らずのうちに人をそこに結わいつけ、縛り付け、やがて完全に絡め取っていく。絡め取られた者は、自らが絡め取られたことに気付かないふりをして、あるいは本当に気付かずに、その地で生を全うし、最後は土に還る。
ふと、この「拠点」という言葉の英語が頭の中に浮んだ。
「Base」。
基盤、基礎、基地。基底、土台。
数多の季(とき)が積み重なって織り上げられた地層。その中に縦横に伸びた根。成長の糧となる滋養を湛えた肥沃な大地。人がそこから生まれ出で、出立し、やがて還って行くところ。生命の拠って立つ源。
英訳の語感が喚起するものに導かれるまま、「拠点」という語をそんなイメージのもとで捉えなおしてみると、当夜の話もまた違った質感を帯びたものになってくる。西村佳哲という人が、齢五十にして掘り当て、達しつつある自らの中の「Base/拠点」。
その深さを、温かさを、第三者が直接感じることはできない。
でも西村さんが、神山町という拠点で、自らの深く温かいBaseに触れつつあるというそのこと自体は、あの会場にいた誰もが感じ取ることができたのではないか。自らの深いところにある土を掬い上げる。
両の手の中に、土の存在を、つまり自らの基底を確かに感じる。
感じる、というそのことの、言葉にならないよろこび。あの夜、あの会場に、西村さんがはるばる徳島から携えて来てくださったのは、その「よろこびのたね」のようなものだったのかもしれない。
鮎は、水温の高まりに反応して遡上を始めるという。
次の川を目指し、終わりなき旅を続ける途中で水温の低下を感じたら、自らの生まれ出た基底にそっと立ち還ってみよう。
水温の代わりに、体温を上げるという手もあるのだから。白澤健志